結婚式や会議・式典など大勢の前で挨拶を述べる場合、誰でも多少は緊張するものですが、時に緊張の度が増すと話そうとした内容がどこかに飛んでしまい、焦れば焦るほどに思い出せなくなり、 暫し呆然と立ち尽くすといった光景を見かけたことが、これまでに何度かありました。衆人環視の中で、あらたまった言葉を使い、その場に相応しい内容を理路整然と話すことは、高い文章能力や話術が必要とされ、何よりも安定した「平常心」が求められるものだと思います。かく言う私も、学校を離れてスポーツ行政を担当していた頃、議会常任委員会という10人程の県議会議員から質問攻めにあう所管業務審査の日は、家を出る時から緊張が走り「何を質問されるのか?うまく答弁出来るだろうか?」という不安を抱えて、足取り重く県庁に向かったものでした。 ところが年数を重ね業務に精通してくると、「どのように答えてやろうか?ここを質問してくれるとありがたい。」といった心の余裕が生まれ、「平常心」に近い自然体で委員会に臨むことが出来るようになっていました。日常レベルの「平常心」とは経験の多寡で解決されるものかもしれません。しかし、この体験は私には何物にも代え難い貴重なものとなり、何年かこの修羅場をくぐったお蔭で、人前で挨拶や意見を述べる時、多少の余裕をもって対応できるようになりました。今ではあの常任委員会の忌まわしさが、私を鍛えてくれたという感謝の思いに変わっています。
スポーツの場面でも、適度な緊張感の中で発揮される「平常心」が、勝敗の行方を左右する事例は多々あります。最初に赴任した学校には野球部がなく、柔道部の顧問になり地区代表で臨んだ県大会個人戦。他の選手は県代表経験者ばかり。緊張する教え子に「やるべきことはやって来た。彼らと戦えるだけで最高。今日は帰りに映画を見せてやるぞ。」という私の言葉にニコリと笑った教え子は、次々に強敵を倒しリーグ戦5戦全勝で優勝し、見事静岡県チャンピオンになりました。教え子は初段、相手は全て2段。練習量では誰にも負けないという自負が勝利を引き寄せたのか?何はともあれ、野球専門の教員が柔道専門の先生方に一泡吹かせた「平常心」の勝利でした。その学校は定時制課程の併設校でナイター設備があったので、野球の感覚を失くさないために、生徒を相手にソフトボールの「ウィンドミル」の投球練習をしていると、バットを持った若い定時制の先生が「勝負してくれ」とグラウンドに出てきました。彼こそ、のちにH工業高校の監督として甲子園に4回出場する男で、S大学時代は当時怪物と言 われた、法政大学の江川卓投手を打ち崩すための特訓を受けた、打撃に絶対の自信を持つU先生でした。「もし打てなければ、私が所属するクラブチームに入る。」という条件で勝負は始まりました。20分ほど対戦しましたが、ライズボール、ドロップ、シュートと球種を交えて勝負し、とうとう彼があきらめました。彼が私のチームに加わった年、社会人の東部地区大会優勝、静岡県大会優勝を果たしました。大事な話はここからです。県大会の決勝に向かう車の中で、私は多少弱気になり「全国大会に常に出るチームには、俺たちよりすごい選手がいるんだろうなあ。」とつい周りに言ってしまいました。その時です、U先生が「いるわけないよ。」と言ったのです。その一言でみんな大笑いし、緊張感がなくなりのびのびと戦うことが出来ました。後には互いに高校野球の監督として何度か対戦しましたが、彼は甲子園4回出場の名監督の名をほしいままにしました。私は図らずも途中から県庁勤務となり、甲子園は叶わぬ夢となりました。彼の持つ「強気の平常心」が周りに勇気を与え、高校球児の真価を発揮させる原動力になると、あの時私は確信しました。誰でも言葉では同じことを言えますが、彼の言葉には怪物投手に立ち向かった血みどろの試練が背景にあり、一般人の言葉とは心に響く強さが違うのです。 恐らく、彼の指導を受けて甲子園の土を踏んだ選手たちは、彼のぶれない「平常心」に包まれて、心地よい緊張感の中で如何なく力を発揮できたのでしょう。
勝負の世界で求められる「平常心」は日常レベルのそれとは異質の重さを持ちます。それは、限界まで挑戦した者にしか得られない達成感によってもたらされる、心の余裕だと私は思っています。私と彼の出会いは、よくある根性物語のように聞こえるかもしれませんが、若かりし日に実際に火花を散らした、男と男の意地をかけた勝負でありました。お互いに年を取りましたが、今でも私は「平常心」の強さを教えてくれた彼の事が大好きです。
校長 松田 清孝