例年6月に多くの国内河川で解禁される鮎の友釣りは、7月ともなると日照時間の長さと気温の上昇などで、河川の底石に良質の藻類が繁茂し、これを主食とする鮎の成長が著しい季節を迎え、太公望(古代中国周の軍師で釣り好き、釣り人の代名詞)たちが川にたたずみ、友釣りの竿(さお)を並べる日本の風物詩となっている。
鮎は美しい魚体と清流に棲(す)む清楚さ、さらに1年でその生涯を終える可憐さとは裏腹の、水中での熾烈な縄張り争いを繰り広げる闘争心が魅力の川魚である。
美しく、釣って楽しく、食べておいしい栄養豊富な鮎は、昔から珍重されてきた。
近年、天然鮎の遡上(そじょう)が悪く、琵琶湖産養殖鮎や種苗産鮎が放流される。
私は、公立高校勤務時代に水産高校の校長を経験し、全国の会長も務めたことから、若干ではあるが魚や実習船には特別な思いと、経験した分だけの知識を持っている。
当該高校は100年近い歴史を持ち、日本で最初に輸出用マグロのツナ缶詰を開発したことで有名だが、養殖の実習場にはウナギ5万匹、金魚30万匹、真鯛、ヒラメ、トラフグ、錦鯉、すっぽん、そして季節で「養殖鮎」も対象魚として管理していた。
私の趣味の一つに「鮎の友釣り」がある。高校新任教員の初任校は伊豆の下田で、海釣り、鮎釣り、ゴルフができないと、先輩の先生方に仲間に入れてもらえなかった。
そこで、地域の釣り名人にお願いし、一から鮎の友釣りをご指南いただいたおかげで、静岡県内の河川はもとより、近隣県の河川でも、恥ずかしくない釣果を挙げてきた。
ちなみに、私の家族が食した鮎は相当な数量であり、皆が丈夫に健康で過ごせるのは、偏(ひとえ)に釣り技術を磨いた私の釣果の賜物であると自画自賛している。
鮎という字の由来はいくつかあるが、戦の勝敗を魚で占ったとの説や、縄張りを死守し強い攻撃性を持つことから、場所を占有する魚で「鮎」となったなどの説である。
私は後者の説を支持している。とにかく「鮎」の習性は分かりやすいほどに、かたくなであり、一途である。自分の城には誰も踏み込ませないのである。オトリを付けてその縄張りの領域に近づけると、途端にオトリが追われて逃げまくる。そのオトリの尾びれ付近に掛け針を仕掛けると、見事に背掛かりして新しい鮎を手に入れることができる。
2匹の鮎が引く力は、水の抵抗も作用して強烈である。9メートルの軽量の鮎竿が強くしなり、簡単に引き寄せることはできない。そこで、私の得意な野球の技術を使い、水中から一気に引き抜いて、宙を飛んでくる2匹を鮎タモで見事キャッチする。
これはまさにスポーツである。鮎との駆け引き、深みの水の抵抗を使って逃げようとする2匹の鮎を流れのたるみや浅瀬に引き寄せながら取り込んでいく。この醍醐味は、こうして文章を書いていても胸が高まり、今すぐにでも川に出かけたくなる。
それにしても、魚体を少しでも傷つけたり水中から出したりすると、たちまち弱くなる鮎が、水中を泳ぐあのスピードや竿をしならせるパワーはどこから出るのだろうか?
測定データはないが、川魚の水中速度では鮎が最速ではないだろうか。まるでリニアモーターカーを見るようで、たとえ釣れなくてもその泳ぐ姿を見ただけで爽快感を得る。
それは、高校生の競技会や体育祭などを見ている時の感覚とオーバーラップする。
若さの象徴であるスピード感と、尽きることのない程の持続力によって生み出される高いパフォーマンスは「鉄は熱いうちに打て」という言葉を如実に証明するに足る。
若いことの素晴らしさ、美しさを素直に認める年齢になったが、負け惜しみと言われても若者にひと言「私にも若鮎のような勢いのある時代があったよ。」と言ってみたい。

校長 松田 清孝