1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催当時、私は12歳で小学校6年生でありました。聖火ランナーの坂井義則氏が国立競技場の聖火台横に立った勇姿は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。坂井氏は当時19歳、1945年8月6日広島に原子爆弾が投下された1時間半後に広島県三次市で誕生し、陸上競技選手でもあったことから、組織委員会が最終ランナーに抜擢したと関係資料に紹介されています。

 

全国各地で聖火リレーを行った4341人を代表して点火したと記録されています。また、新聞特派員記者を担当したのは作家の三島由紀夫氏であったとの記載もあり、坂井義則氏の聖火ランナーを評して「日本の青春の簡素なさわやかさ」とレポートしていたことを知り、オリンピックエピソードとして新たな驚きを覚えました。

 

空には航空自衛隊ブルーインパルスによる「五輪」が見事に描かれ、開会式に花を添えました。宮城県松島基地第4航空団所属の「第11飛行隊」は、現在もソロ飛行やアクロバット編隊飛行による驚異のパフォーマンスで、多くのファンを魅了しています。選手団入場では、小関裕而氏作曲による「オリンピックマーチ」の軽快なリズムに合わせて、オリンピック発祥の地ギリシャを先頭に、各国選手団が華やかに行進を行い、平和の祭典に相応しい感激のシーンが展開されました。子ども心にもそのオリンピックマーチには感動を覚え、今でも聞くたびに鳥肌が立つ思いです。

 

開催地の東京は高速道路や新たな競技会場が整備され、終戦からの復興の象徴として、平和を希求する新しい日本の力を世界に示す、大きな役割を果たすことになりました。それまでカラーテレビ放送は世界中でアメリカでしか行われていなかったと関係資料にありますが、東京オリンピックではバレー・柔道・体操・レスリングなど8競技でカラー放送が行われたということです。小学校教員の初任給が1~2万円程度であった当時、カラーテレビは約50万円と庶民には高嶺の花でしたが、オリンピック開催を契機としてカラー放送番組が増え、値段も下がり一気に普及し始めたとのことです。


カー・クーラー・カラーテレビが「新三種の神器」と呼ばれることになりました。当時のオリンピック開催の副産物は大規模インフラ整備にとどまらず、国民生活の近代化と経済発展にも大きな影響を及ぼし得る、戦後復興という時代背景がありました。その点では近年、オリンピック開催国が多額の財政負担や施設の後利用に苦しむ状況とは違う、目に見える経済効果が発揮された時代でもあったと言えるでしょう。

 

日本は金メダルで、アメリカの36個、ソビエトの30個に次ぐ第3位の16個であり、「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーや、体操男子、柔道、レスリングなどの活躍を中心に、銀メダル5個、銅メダル8個、合計29個のメダル獲得と多くの入賞により、敗戦から立ち上がりつつあった国民に、希望と勇気を与え、高度経済発展に向けて大きな心のエネルギーを蓄える契機になったと言えるでしょう。各競技においては、日本体育大学の教職員や学生が競技運営を全面的にサポートし、「オリンピック成功の陰に日体大あり」とまで言われたと聞いております。

 

国際的なスポーツの祭典を通した感動は、幼い頃も年齢を重ねた今も変わりはなく、自国選手の活躍は日本人としての誇りを高め、強い愛国心を育てるものです。「たかがスポーツ、されどスポーツ」を実感する瞬間でもあります。東京オリンピックは1940年の中止を含めると、本来は3回目と言うべきでありますが、コロナ禍での開催でもあり、誰もが納得する万全な安全対策と、完璧な大会運営で「平和と安全」な大会として日本の底力を示し、大成功に導かねばなりません。

 

世界的スポーツイベントの開催まで1か月を切りました。本校の同窓生からは体操の畠田瞳選手とトライアスロンの小田倉真選手、ゴルフ競技で丸山茂樹氏が日本チーム監督として出場が決定しています。

 

6月後半から大学でのワクチン接種が始まり、コロナ収束に向け大きな第一歩を踏み出したように感じていますが、相次ぐ変異株の出現に気を許すことは出来ません。人数制限を設け観客を入れての開催が発表されておりますが、私が幼い頃の記憶にとどめているオリンピックとは異なる、特徴的な大会になりそうです。大会関係の皆様には、選手や役員、観客等の安全を最優先したうえで、素晴らしい大会となるよう競技運営に臨んでいただきたいと思うばかりです。